意味論 (2001/01/18)


言語は世界のすべてを記述できるか?

極めて「言語万能主義」的なサブタイトルであるが、このようなことを 考える人はあまりいないかもしれない。多分筆者が想像するに、これは極めて 自明なことであるからだと思う。(それも否定的な意見であろう)しかし、筆者 はそうは考えない。まず、「言語」というものからして曖昧である。普通、 「言語」というのは普通の話し言葉のことを想像するかもしれないが、「言語」 というものはそれには収まらないと筆者は考える。例えば、コンピューターの プログラム…特にスクリプト系…は「人工言語」とあからさまに「言語」とい う言葉を使っている、また極端かもしれないが、プログラムはすべて言語だと みなしてよいであろう。例えばMidi形式のファイルであれ、プログラムを実行 するファイルであれ、それは言語で記述されているのである。

「言語」というものはどこまで適用可能なのか?

先ほどは例としてコンピューターのプログラムを例に挙げたが、世の中 のどこまでが言語という枠に収まるのか考えてみよう。ここでは一般論を語る のは困難なので、いくつか例を挙げることにする。例えば音楽。譜面というの は極めて原始的な言語であると言えよう。だが譜面というものは万能ではない。 音楽家の数だけ譜面の解釈があり、譜面をただ1つの意味として捉えるのは問 題がある。よって「原始的」と書いたのである。では音楽は言語とは切り離さ れたものであるだろうか?筆者はそうではない、と考える。例えば、多くの演 奏、例えばピアノ曲としてみよう。それはデジタルピアノを使ってMidiファイ ルに還元することによって、それぞれの演奏が一意に定まる。これを実際の演 奏とMidiが同一の物であるか?という考えに至るが、現時点では不完全である、 と言うしかない。しかし筆者はコンピューターの進化によってデジタルなもの だけでなく、アナログなものも表現できるようになるであろう、という考えを 持っている。そうなれば、音楽もすべてコンピューター、つまり言語で表現可 能になるのである。

ついでに、コンピューターに還元できない楽器の演奏はどうすればいい のか(例えばバイオリンなど、バイオリンに限って言えばバイオリンのオルゴー ルなるものがあるので不可能とは言わないが、原始的である、と言わざるを得 ない。)という課題がある。実はもっと先に述べたことよりも極めて単純で、 ロボットに演奏させればいいのである。身もフタもないかもしれないが、実は これが一番シンプルなのである。

ロボットは人間の代りになるのか?

ではロボットはどこまで人間に近づけるのだろうか?この点については 現代科学に携わる人々でも賛否両論であるとは思うが、大胆にも筆者は人間= ロボットになる、という予測をしている。(大胆すぎる?)。なつかしの漫画 「銀河鉄道999」のように機械の体を欲しがるようになると考える。ただし筆 者の考えでは、貧富の差がその機械になって現われる、ということである。極 めて機能的な機械(体)は金持ちが所有し、貧乏な人間は極端に言えば体すらな い、ただの1パーツとなってしまうであろう、と考えている。

筆者がどんな世界観を持っているのかいくらか理解していただけたと思 うので、機械が人間に近づけるのか?という話の本質について語ろう。筆者は 基本的に人間の脳は単なるサーキット(機械回路)である、と考える。サーキッ トであるなら閉じた世界、つまりすべてが予測可能な世界になるのではないか、 以前友人と議論をしていた時に「予想しない動きをする機械など考えられない」 という話になった。しかし、あれこれ考えた結果、機械が予測し得ない動きを する可能性はある、という結論に達した。キーは量子力学である。量子コンピュー ターなどが実際の物となった時、量子は確率的に振舞うはずである、それをど う対処するかは知らないが(統計的になんとかするのであろうが)、1つ1つの動 きを考えれば、人間には予測不可能な状態になるはずであ。統計的に処理でき る量子数を割り込んだ時、人間には予測できない機械というものが誕生するの ではないか、というのが筆者の考えである。

言語が世界を覆うためには?

これまで人間の所作がコンピューターで立証、つまり「言語」として表 現できると述べた。ここまでくれば、言語で世界を覆うのはかなり楽である。 残った部分は「人のいない世界」である、これを述べるのはかなり困難である と思うし、筆者はこの部分に対する結論を現在持ち得ていない。このへんは 「シュレーティンガーの猫」などの問題もあり、筆者の想像を越えているので、 機会があればまが書きたいと思う。さて「人知が及ぶ世界」を記述してみるこ とにしよう。

まず、世界を意味で表現できる、意味空間、というものであるとする。 となれば、言語の1つ1つはその空間を覆う集合であると考えることができる。 となれば、あとは単なる集合論であるので簡単である。では言語の1つ1つは有 限なのかということが問題になる。もし仮に有限であるとすると、世界のすべ て、意味空間を覆うためには無限の言葉が必要になるであろう。(世界が有限 であるとは考えない。それならこんなことをいちいち語る必要もないであろう) 無限の言葉が必要なのに世界の要素を確定することができるのか?という話に なる。しかし、あるもの、を指定されれば、それに対応した言語は存在するは ずである。たとえどんな複雑なものになろうとも…一応…記述可能なはずであ る。

言語の限界に挑む

話は変るが、筆者は現代音楽、抽象美術好きである。世界をアタリマエ に描こうとすると、ごく普通の風景や、人物画にならざるを得ないと思う。し かしそれではごくごく世界の狭い領域に人知を留めてしまっていると考える。 人間が理解可能か?ということを抜きにして現代美術はその狭い領域から抜け 出して、新たな世界を切り開いていると思う。筆者はそのような表現者を好み、 そして尊敬する。

話は飛んだが、「世界のすべて」を記述するためには、とても理解不能、 というより、理論にならない物まで扱う必要がある、と考える。しかし人間の ままでは不可能であっても、機械になってしまえば可能なことがあると思う。 例えばコンピューターのプログラムである。人の目から見ればどう考えても (わかる人にはわかるのかもしれないが)理解不能である。しかし、機械はそれ を見て、その通りに実行しているのである。コンピューターには無限の可能性 が潜んでいると筆者は考える。

行き着く果て

これまで、言語、そしてコンピューターの可能性を論じ、「世界は言語 で記述可能である」という意見を述べてきた。しかし、この話は大きな穴があ る。人間のいない世界が欠けているのである。そこまで筆者が見識を広め、結 論が得られた時にその議論を再びすることをここに宣言する。ただしこれは相 当に難しい問題である。筆者が生きている内にその結論が得られることがあれ ば幸いである。そして、我々は機械の体を得ることができるのだろうか?とて も楽しみである。


おしまい