本にはたいがい帯というものが付いてくる。これはけっこう本の好みを 決めるにあたってけっこう重要なものであるのは承知のことと思う。好きな人 の推薦文があったり、素敵なキャッチコピーがあったり、救済の言葉が書いて あったり、見たこともないような景色があったり、まあ、色々な要素がその人 をひきつけるのだろう。
帯というのはまた本のデザインをも左右する。例えば、柳美里さんの本 の場合、多くの本が下の方が空白というか、"何もない"状態になっている。何 故にこのようになっているのだろう。特に「男」。無理に下に空白を作ったせ いか「男柳美里」に見えてしまうではないか(みなさんはそう感じませんでし たか?)。その他の本をいろいろたぐってみたが柳美里さんの本はたいがい下 が空白(というかな"何もない")になっていた。
逆の例もある。帯に表紙と同じイラストが書いてあって、表紙の感覚を 損ねないようにしてある場合である。こういうのが理想的なのだが、コピーを 書く側としてはかなりつらいだろう。サラの本よりかは、やはり粋なキャッチ コピーのある本の方が売れると思う。
何故このこのことを書こうと思ったのか、それは吉本ばなな「不倫と南 米」という本に始まる。表紙それ自体はデザインとして完成されているにも関 わらず、表紙がないとなんとなくしっくりこないのである。初めての、不思議 な感覚だった。「不倫と南米」のシリーズの前作の表紙を見てみると、確かに 無理に下に空白を作っているような所作はない。なのに、この本だけ「なぜ?」
今、柳美里さんの本の帯をどうしようかと考えている。いくつかは気に 入らなかったので捨ててしまった。今考えると、やはり帯はとっておくものな のかと考えてしまう。みなさんはどうしてますか?
(2000/03/04)読書というのは集中する作業だ。決して他に集中をそらしながらできる ことではないと思う。ではBGMは必要なのか、と尋ねられると答えるのが難し い。この程度の文章を書くのならたとえ「もみじまんじゅう」を食べていたっ て平気だ。実際。今。そうしてる。やっぱり黒あん、そうじじゃなくて。BGM の話である。
アメリカ映画では音楽を先に作らせる、という話を聞いたことがある。 音楽で人を泣かすことができるが、泣かせるためにはそこまでうまく音楽をもっ てゆかなければならない。だから、映像を先に作ってしまうと、無理矢理音楽 をあてはめないといけないので、泣かせ所でうまいこと音楽をもっていけない というわけである。ちなみに日本映画は逆だそうだ。ついでに言うと、音楽業 界でいう詞先、曲先、という話である。詞が先だと、どうしても無理にあては めた音楽になりがちだし、曲が先だとやはり無理にあてはめた音楽になる可能 性が高い。理想は同時に言葉も、音も、といきたいところだが、このせちがな い音楽業界では、シンガーソングライター以外は不可能だろう。
話を本のことに戻そう。結局の所、ある方がいいのか、ない方がいいの か、というのは運しだいなのである。曲の最後のデクレッシェンドにピタッと 文章の最後が合うとたしかに、何とも言えない最高の気持ちになれるが、曲は 待ってくれない。時間はどんどん進んでゆく。目線の位置など一切かまわずに。
ただ、音楽に耳がいくのは文章に集中していないのだ、という意見もあ るだろう。確かにそうだ。本当最高の本を読んでる時は回りの音なんて聞こえ ないものだ。不幸にも最高の文章に巡りあえなかった時は適切な音楽を探そう。 いや音なんてむしろなくてもいい。無音。その方がよっぽどましかもしれない。
ちなみに、最近の私は無音で読書するスタイルを保っています、参考ま でに。
(2000/03/04)